創立者 田邊 新之助先生の墓参

2023年度報告


令和5年2月18日。墓参には後藤校友会会長、鎌倉会から志村、小磯、宮崎、櫛引の四会員で墓碑清掃と線香を供えました。  
 
4月18日に行われた母校創立120周年式典ででは、生徒が主体となった「120周年プロジェクトチーム」で作成された神奈川県下で最も歴史のある母校の開学の祖であり、また鎌倉女学院の開学の祖でもあることが披歴されました。
 
現在も開学の精神を受け継ぎ、輝かしい歴史を連綿とつないで行けることに感謝しつつ、鎌倉会としてはこれからも墓参を続けることを、改めて感じております。
 
新型コロナは5月18日をもって規制が解除されましたので、来年からはコロナ禍以前に墓参して頂いた皆様に再度お声かけをしてゆきます。
 
鎌倉会会長 櫛引信明
 

アーカイブ

 


2022年2月19日、恒例の墓参は今年も新型コロナの影響で、後藤校友会会長、鎌倉会より櫛引・宮崎の正副会長および志村会員の4名で行いました。
 
集合場所は鎌倉駅西口、当日は土曜日の11時であるにもかかわらず相変わらず人出はかなり少ないように見える。寿福寺への道すがら観光客と思しき人たちは少ないように見える。2年以上経ってもまだ新型コロナの影響は大きいのだろう。
 
学祖のお墓は寿福寺の奥まったところにあり、例年は境内で行き交う人はほとんどなく静かだが、今年はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響だろう、学祖のお墓よりちょっと離れた所にある北条政子と源頼朝(頼朝の墓は西御門の法華堂に祀られた)のお墓を訪れる人が多いようであり、山門の方からも声が聞こえてくる。私たちは例年と違う、話声の聴こえる中、今年の墓参を終えた。

2022年7月発行・会報第67号に掲載

2021年2月20日(土)、新型コロナウイルスの影響で土曜日でありながら、行き交う観光客がだいぶ少ない鎌倉の江ノ電駅側で集合し、清掃・墓参に行きました。
 
例年ですと各地区会の校友や松坡文庫研究会に携わっておられる「図書館ともだち鎌倉」の方々のご参加をお頂いておりましたが、新型コロナ蔓延を考慮しご遠慮願い、今回の墓参については後藤校友会会長と鎌倉会会員4名で寿福寺の墓前に献花と線香を手向け、母校の更なる繁栄を繁栄を祈念して参りました。
 
例年ですと墓参後、小町通りの老舗中華料理店「二楽荘」で歓談をするところですが、前述の通り新型コロナ禍でもあり、鎌倉駅前で散会となりました。
 
来年こそこの騒ぎが収まり、皆さんと墓参し、母校の発展・繁栄と校友会の発展をお願いしたいと思います。
 
なお、この時の写真や動画はインターネットで見ることが出来ますので、アクセスしていただけると幸いです。 http://kaisei-kamakura.com/
(鎌倉会会長 高17回 櫛引 信明)

               2021年7月発行・会報第65号に掲載

松坡文庫研究会 第2回講演会 「晃陽片野玄貞と田辺松坡」

 

2022年4月10日(日)に開催されました。
 画像をクリックすると拡大してご覧いただけます。


松坡文庫研究会講演会 「七里ヶ浜ボート遭難事故と田辺新之助」

 

本校元校長、袴田潤一先生が主宰する松坡文庫研究会は、2017年に設立され、」鎌倉中央図書館の「松坡文庫」(田辺新之助蔵書)及び田辺新之助先生その人についての調査を行っています。
2021年10月3日に開催された講演会では、東京開成中学校からの分離独立直後に起こった七里ヶ浜ボート遭難事故を軸に、当時の逗子開成中学校の状況や田辺先生の事故対応などについて、客観的な資料をもとにご講演されました。
講演には定員いっぱいの参加者があり予定時間を超える有意義な内容でした。
 
2022年1月発行・会報第66号に掲載 


松坡先生の旅


松坡文庫研究会代表
逗子開成中学校・高等学校元校長
 
袴田 潤一
 
松坡田辺新之助晩年の詩に「我、煙霞の癖有りて、遍(あまね)く神州を探勝す」との一節がある。煙霞とは煙のように立ち籠めた霞や靄、転じて自然の風景を意味し、「煙霞の癖(へき)」とは自然の風景を好むことをいう。松坡先生は自然を愛し、各地の名勝を探し訪ねたと詠う。これまで私は松坡先生の漢詩七百首余を閲したが、旅、名所旧跡を詠んだ詩は多い。
 
博文館の『太陽』に「東寧遊艸(ゆうそう)」と題された連作詩が掲載されている(第四巻第二十三号、同第二十四号 1898.11.20, 12.5)。この年、明治三十一年、八月一日から五日まで、正岡子規とも親交の深かった松永聴剣と利根川周辺を旅した折のことを詠んだ二十四首である。東寧は言うまでもなく利根。
 
連作の冒頭に置かれた前書と詩から二人の利根探勝を追ってみたい。松坡先生はこの時、三十七歳で東京府開成尋常中学校校長。夏休み期間中を利用したのだろう、八月一日に東京を出発し銚子に到着。実は明治二十八年に東京・銚子間に蒸気船直行便が就航しているので、二人は船で銚子港に到着したに違いない。旅の目的の一つに、この直行便に乗ってみようということがあったのかも知れない。旅装を解いたのは犬吠崎洗心楼。夜来の雷雨もおさまった翌朝は海で日の出を拝んでいる。大潮で海辺には多くの人が集っていたという。祇園祭への来会者の多さに驚き、舟で利根川を遡り賀村泊。三日はやはり舟で浪逆浦を経て大船津に上がり、鹿島神宮に参拝(ここで雷雨に遇う)。再び大船津から上津宮まで利根川を遡上し、香取神宮を拝んで、佐原に泊まる。この日は余程早く床に就いたのだろう。四日目は真夜中に舟で霞ケ浦を渡って土浦に到着し、筑波山に登っている。宿は筑波山楼。随分ハードな旅程だ。最終日八月五日は土浦から、恐らくは常磐線で帰京。
 
旅中での着想に基づいて作られたのが連作二十四首ということだろう。その中の「鹿島神廟雷雨観宝刀歌」「宿筑波山楼二首」は後に『明治文学全集』の一冊である『明治漢詩文集』(筑摩書房1983)に明治期の松坡先生の代表作として収録されており、この利根旅行は文学の上でも先生にとって意義のあるものだったのだろう。
 
十四年後の明治四十五年七月中旬、松坡先生は大江卓とともに山陰を数日間旅し、「山陰游草」と題された連作詩二十五首を残している。七月九日、二人は鎌倉を発ち、その晩は京都鴨川近くに宿泊。横須賀線・東海道線を乗り継いで、国府津から「特別急行列車」に乗ったに違いないのだが、実はこの列車、六月十五日のダイヤ改正で、新橋・神戸間の「最急行一・二列車」が下関まで延伸された日本初の「特別急行列車」。松坡先生、ここでも最新交通機関を利用した旅。好奇心旺盛で行動的な松坡先生の姿が窺えて興味深い。
 
2020年7月発行・会報第63号に掲載