八方尾根遭難事故
母校ホームページから
1980 (昭和55)年の暮れに起きた北アルプス八方尾根での遭難事故は学園に大きな打撃を与えました。山岳部生徒5名と顧問1名の命が失われました。補償をめぐって遺族と学園との間で訴訟が起こり、学園は大混乱に陥りました。
長きにわたった混乱を収拾したのが、1984 (昭和59)年2月に理事長に就任した徳間康快でした。徳間新体制のもと学園改革は急ピッチで徹底的に進められました。募集を停止していた中学校再開(1986)を大きなステップとして、諸設備の充実が図られました。校庭散水設備・暖房設備・AVC教室・85周年記念ホール(現徳間記念ホール)・海洋教育センター、等々です。
設備の充実と並行して教育システムの整備も行なわれました。二期制導入・海外研修実施・週5日制実施と土曜講座開設、等々です。2000(平成12)年9月に徳間康快が理事長在任のまま逝去するまでの十数年間は弛まざる改革の時代でした。
「八方ケルン(逗子開成ケルン)」と「いのちの碑」について
事故報告書「白いケルン」より抜粋、一部編集して掲載
山岳部遭難事故の犠牲者を慰霊するために、現地八方尾根に何らかの記念碑を造ろうという気持ちは、遺族をはじめ諸関係者の切なるものであった。しかし、これには遭難問題の未解決という内部条件のほかに、現地が国立公園内にあるために、記念碑などの一切の建造物を設置することが、行政上不可能に近いという難問があった。
いっぽう、遭難事故以後、現地の諸関係者と親しく接触しているうちに、遭難地の迷いやすい地点に、確実な道標を造ってはどうかという意見をたびたび耳にした。私ども関係者としては、犠牲者の慰霊と山行者の安全祈願とを込め合わせて遭難時現地に多々迷惑を掛け、お世話いただいたお返しに、道標を建設できれば幸いなことであると思われた。
現地で事故に最も関係の深かった、国民宿舎八方池山荘の管理人・鈴木和彦氏(自然保護指導員、北アルプス北部遭対協会員を兼ねる)が、昭和57年度当初より、白馬村役場・北安曇地方事務所などの関係諸機関と折衝を続けられた。さらに、昭和58年夏より八方尾根のハイキング用トレッキングコースの整備に際し、特に道標の必要性を強調されるに至った。私どもは、これとタイミングを合わせ、昭和58年5月以降、建設を具体化するために、積極的に取組むことになった。
春や夏の季節に、あの八方尾根に立ち、第三ケルンと第二ケルンの、わずか500メートル足らずの現場を目にするとき、悔やんでも還らぬ思いと、冬山の恐怖とが心に刻まれるばかりです。私どもは、二度とこのような事故を起こさないように努めることが、生きている者の責務と感じ、ここに道標建設の意志を表明しました。この道標が、事故を未然に防ぎ、登山者の安全のために役立つことを願うとともに、本校山岳部の遭難にのみ関わるものではなく、広く公共の建築物として後々までも有効に機能することを祈念するものであります。
各方面のご協力により、白馬村より「土地の無償貸与」、北安曇地方事務所林務課より「保安林内土地形質変更許可」をいただき、最終的に環境庁の「建設許可」がおりました。
目標物のない、だだっ広い第二ケルン周辺の尾根にあって、この「八方ケルン」は多くの登山者のためにより良き道標として機能することを願い、また、八方ケルンの基部には遭難した6名の戒名を記した経簡・遺品を納めようやく完成した。それまでには度重なる交渉や役所への書類の提出など煩雑な手続きが多くありました。そのなかで、完成後に三点の問題が発生する。完成した建造物が、いずれも申請時のものと異なるという点で、1つは高さが3メートルに対し約5メートル、2つ目は借用地積の4.86平方メートルに対し29.25平方メートルにそれぞれ変更したこと、そうして三つ目にはその土地が白馬村所有のほかに国有地を含んでいたことなのである。そのため環境庁長官あてに「始末書」を、白馬村村長あてに「お詫びとお願い」の文書を提出し、両者のご理解を得なければならなかった。
宿泊していた国民宿舎八方池山荘の管理責任者・鈴木和彦氏等から、予定地は4メートル以上の積雪があり、3メートルのケルンでは埋まってしまい、道標の役をしないという話がありました。実際に第二ケルンが雪で埋まってしまったということでした。また、形についても宿泊客を含めた話の中で色々な意見が出て、方向指示の機能を持たせ、かつ他のケルンと識別し易いように角錐型の方が良いのではないかという意見がありました。
4月下旬に本校山岳部生徒遭難者合同慰霊祭があり、その折に白馬村からお越しいただいた方々からもいろいろの御意見や、御助言があり、特に冬山登山の道標として、より安全な目標物になるように建設されることが必要であると当事者として痛感しました。
地理的制約もあり綿密な打ち合わせができずに用地検討不十分なままに、大まかに業者に一任した形で、建設を依頼せざるをえませんでした。特に構造物が強風や豪雨に耐えられるように土台の強化と周辺の整備を図ったため用地が増大しました。
さらにまた、国有地であることから大町営林署のご協力が必要となり、この件については昭和60年の秋、白馬村役場が署と積極的に交渉し、解決案を提示された。現在、ケルン前面にある略図のなかに「大町営林署・白馬村」と記された銘板はこうした経緯によるもので、この「八方ケルン」は、まさに関係諸官庁のご理解とご協力のうえに実現したのである。
母校体育館の前にモニュメント「いのちの碑」があります。この碑は、直接には山岳部の遭難者慰霊から生まれたものでありますが、それだけではなく、学園の内外で行われるクラブ活動において不幸にも亡くなられた生徒、学業半ばにして事故や災害、あるいは、病魔に倒れた生徒の慰霊を含め、広く学園生活の安全を祈願することから「いのちの碑」と命名され建立されました。
校友会は母校と協力し慰霊登山を行っています。最新の情報をお伝えします。
八方尾根慰霊登山を終えて
逗子開成中学校・高等学校教諭 宇野一成 (高29回)
2022年8月23日~25日の日程で、52会有志3名(大須賀さん、薬袋さん、宇野)と、恩師である坂田先生の4名で、八方尾根の慰霊登山に行ってまいりました。
昭和55年(1980年)12月におきた遭難事故で犠牲となった生徒5名、教員1名の慰霊と、この事故の記録や記憶が風化しないようにするため例年行っていることですが、次年度が本校120周年にあたり、その記念事業の一つとして、昭和59年(1984年)7月に『犠牲者の慰霊と山行者の安全祈願』をこめて建設した『八方ケルン(通称:開成ケルン)』の修繕を行うということがあり、その手続き方法や地元業者の資料の提供などをお願いした際、快くご協力いただいた白馬村役場の担当の方々への御礼とご挨拶も今回の一つの目的としてありました。
現地に到着した8月23日(火)の午後は、長谷(ちょうこく)寺(事故当時、遺体を荼毘(だび)にする度に読経していただいたご住職のお寺)で手を合わせ、その後白馬村役場に伺い、担当者の方に御礼と今後のご協力のお願いをしてまいりました。
翌8月24日(水)はどんよりした曇り空で雨を覚悟しつつ、午前8時すぎ、いつものようにゴンドラとリフト2本に乗り1850mの八方池山荘に到着しました。ここから坂田先生を先頭に出発し、途中の休憩時には事故当時の状況の話しを伺いながら、第2ケルン(2005m、通称:息(やすむ)ケルン)を通過し、2035mの八方ケルンまで80分ほどで到着しました。この八方ケルンを目前にした途中で、唐松岳から下山してきた本校高校2年の生徒2名に遭遇するという、偶然にしてもこれはないだろうという実に驚くべき出来事がありました。その興奮と感激した気持ちを引きずりつつ、八方ケルンの外観の様子やその痛み状況を確認した後、その先にある八方池から見る雲間の景色で心と体を休め下山の途につきました。
今回の登山では、心配していた天気も時折青空が覗き、広がる雲海と木々の緑とともにこれもまたすばらしい景色で癒されたこと、それと何より出会った生徒達が「八方ケルンをしっかり見てきました。」と母校の出来事に意識を持って力強く話してくれたことに心が熱くなり満たされた登山となりました。また、この慰霊登山で例年立ち寄らせていただいている、白馬駅傍の割烹さわど(当時、捜索本部となったさわど旅館)の店主西村さん(本校卒業生)と繋がりが保てたことも大きな収穫となりました。
八方ケルン背面にあるプレート