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高4回同窓会  

2012(平成24)年4月 傘寿を機に最後の同窓会

高4回の第20回同窓会は、平成24年4月11日(水)「 KKR鎌倉わかみや」にて32名の参加を得て開催した。我が期は、消息の判明している級友約百名全員に、同窓会への参加を呼びかけるいわゆる全体同窓会は今回を最後とした。
 
平成4年横須賀で第1回目を開催した時の参加者は82名であったが、高齢化に伴い毎年参加者が減少しきたこともあり、傘寿を機に同窓会組織は解散することになった。「開物成務」への投稿も今回が最後となると思うと感慨無量のものがある。
 
思えば終戦の翌年、食うや食わずの生活状態の中で、弁当持参が叶わないため、午前と午後の二部授業だったことや、校舎の焼失のため、体育館を仕切った教室での授業、厳冬期の全校マラソンで戻ったときにはトップはもう弁当を食べていたことなど数え切れないほど同窓生との思い出は尽きない。
 
解散するに当たって、有志のみによる同窓会を開催した場合、参加する意思の有無を尋ねたところ34名が今後も繋がりを保ちたいとの回答があった。同級生諸兄の健康長寿と、母校のますますの発展を望みながら最終稿とする。(小松原 記)


2011(平成23)年4月開催しました

高4回(昭和27年)卒業生は、平成23年4月6日(水)葉山マリーナ内の恩波亭において第19回同窓会を開催した。
 
東日本大震災の後遺症や行事自粛ムードが漂う中で、一時は開催を中止することも視野に状況の推移を見守ったが、級友からのこのような時こそ萎縮し勝ちな気持ちを鼓舞し、明日への原動力にしようという励ましの声に応えて開催に踏み切った。
 
幸い天候にも恵まれ、真っ白に雪をかぶった富士と江ノ島を背景にテラスで記念撮影を撮った。先月末までに同級生の全員が喜寿を越えたが、参加者30名皆こぞって元気だ。今回の同窓会の特色は、このおしゃれな会場に相応しいイベントとして童謡・唱歌歌手のもりや櫟さんのミニコンサートを開いたことである。因みに、櫟さんのご主人とその父親の親子2代揃って逗子開成縁の人たちである。
 
更に、ピアノの伴奏をして下さった北原美枝子さんのご主人も逗子開成の卒業生ということで最初から大変和やかな雰囲気の中での同窓会となった。
 
この日歌って頂いた曲目は、「浜辺の歌」、「埴生の宿」、「初恋」で、「見上げてごらん夜の星を」を全員で合唱したが、歌の合間に北原さんの「トロイメライ」をピアノ演奏で聞かせて頂いた。
 
同窓会の終わりを「真白き富士の根」の合唱で締めくくったが、次回の同窓会までお互い健康で過ごすことを約してまだ明るい葉山を後にした。同窓会ではこの度の大震災の復興を願って義援金を贈った。(小松原司朗) 


2009(平成21)年4月開催しました

平成21年4月21日(土)会場となったホテルキャメロットジャパン横浜に、山田眞司先生と、竹腰正保校友会会長をゲストにお迎えし、44名の級友が集った。
 
我が期は、戦後初の中学生として昭和21年、すなわち終戦の翌年、戦後の混乱期の申し子のよう間、345名が校門をくぐった。実戦の戦争体験は無いが集団或いは縁故といった疎開を経験し、精神的には逞しさを秘めていた。
 
入学の翌年の4月、現在の6・3・3制に移行し新制中学2年となったその直後、我々の学ぶ校舎が因不明の火事によって焼失した。更に、その年の6月と7月に相次いで放火と思われる火災で第2校舎などが焼失した事件、米海軍の池子弾薬庫の大爆発も未曾有の大事件として卒業後60年になろうとする今でも記憶に新しい。
 
忘れ得ない思い出といえば、中学3年の時、甲子園行きを賭けた戦後初の高校野球の神奈川県大会決勝で淺野高校に敗れたこと、高校1年の時、当時日大生で数々の世界記録を打ち立てた古橋廣之進さんが母校のプールで泳いだ姿を目の当たりにしたことであろう。
 
長くなるので先を端折るが、代表幹事としては、これからも出来るだけ多くの級友が同窓会に馳せ参じてくれることを念じつつ筆を措く。(小松原司朗)