鎌倉稲村ガ崎海浜公園のボート遭難碑周辺を清掃

2018bo-tosounannhi.jpg 2018年も各地区会の方々のご参加を得て、1月20日(土)晴天の七里ヶ浜辺で13名、いつものように銅像とその周辺の清掃と献花、そして「真白き富士の根」の合唱などで終了後、レストランでの新年会という運びになったが、考えてみれば確か同窓のお坊さんも何名かは居られる訳で、来年あたり1、2名お呼びして、無論お布施は無料で(?)お経を上げて戴いてはどうだろう。
 100年程の年月を経ても12の御霊は多分喜んでくれるのではなかろうか…と思う。ともあれ、その水難事故を忘れる事なく伝えていく責務は伝統校たる逗子開成並びに母校で学んだ同窓生全員にあるのではなかろうか…と思う。(高18回 瀧川 和人)

ボート遭難について

 1910(明治43年)1月23日、七里ヶ浜沖で逗子開成中学のボートが転覆し、生徒12名が亡くなった。
 逗子開成中学は、当時の校長が海軍将官だったため、海軍軍人の子弟が多く通っていた学校だった。
 この日、少年たちは、軍艦「松島」から払い下げられたカッターで江の島までの旅に出るが、その帰路、行合橋を過ぎたあたりで転覆事故に遭ってしまう。
 ボートには12名の少年たちが乗っていた。
 その中には小学生もいた。
 遭難事故は、江の島や七里ヶ浜の漁村で目撃され、いっせいに半鐘が打ち鳴らされ、漁師たちが悪天候の中、漁船を繰り出したが、海に投げ出された少年たちを発見することはできなかった。
 転覆と同時に少年たちの姿は見えなくなっていたという。

 冬の七里ヶ浜の海は、急に悪天候となり寒冷な西風に襲われることがある。
 逗子開成中学の生徒たちは、江の島を出るときに漁師に止められたというが、当時の校風がボートを海へと漕ぎ出させた。
 遭難事故の翌日、横須賀軍港から掃海艇が派遣され、12名の遺体が発見された。
 その遺体の中には、中学生の兄が小学生の弟をしっかりと抱きかかえた姿もあったという。