ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門

逗子開成中学校・高等学校 元校長 袴田 潤一

 大正末に逗子開成中学校で学び、太平洋戦争末期に自らを犠牲にして日本軍の台湾人兵士の多くの命を救った人物がいます。廣枝音右衛門君です。
 廣枝は1905(明治38)年に神奈川県足柄下郡片浦根府川(現小田原市根府川)に生まれ、1924(大正13)年に逗子開成中学校4学年に編入しています(編入前の履歴は残念ながら不明です)。在学2年で卒業し、日本大学予科を経て、1928(昭和3)年に佐倉歩兵第57連隊に入隊、軍曹にまで昇進しました。満期除隊後、一時湯河原町で小学校教員を務めますが、1930(昭和5)年に台湾総督府巡査を志願し晴れて合格、台湾に渡りました。植民地台湾の治安維持のみならず民生向上にも貢献したそうです。温厚な人柄で、部下・島民からも慕われたといいます。
 太平洋戦争の戦線拡大により、軍属部隊である海軍巡査隊の総指揮官を拝命したのが1943(昭和18)年で、台湾の警官を中心に編成された約2千名の隊員を率いマニラに到着したのが12月でした。ルソン島への連合軍の上陸が迫ると、マニラ海軍防衛隊が編成され、海軍巡査隊はその指揮下に入りました。1945(昭和20)年の初め、連合軍がルソン島に上陸して激戦が繰り広げられる中、海軍防衛隊は隊員に敵戦車への体当たりを命じたのです。しかし、2月24日、廣枝は部下に向けて次のように語り、拳銃で頭部を撃ち自決したのです。
 「此の期に及び玉砕するは真に犬死に如からず。君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ、責任はこの隊長が執る」
 その後、廣枝の部下数百人は米軍に投降、約1年間の捕虜生活を経て故地台湾へ生還しました。
 戦後、廣枝の部下だった台湾人警官らによって元台湾新竹州警友会が結成され、時を経て、1976(昭和51)年、台湾北部の苗栗県獅頭山に廣枝の位牌を祀りました。今日まで慰霊祭も毎年執り行われています。
 翌1977(昭和52)年には日本在住の有志らにより茨城県取手市弘経寺内廣枝家墓域に顕彰碑が建立されました。

 多少長くなりますが、顕彰碑に刻まれた文章を紹介します。
 ああ壮烈 義人
 廣枝音右衛門
 君は明治38年12月23日神奈川県小田原に生まれ長じて東京日本大学に学ぶ昭和5年意を決して台湾警察に身を投ず頭脳明晰資性温厚而も剛毅果断 台湾島民の信頼殊の外厚し昭和12年7月日華事変勃発続いて昭和16年12月大東和戦争に拡大其の間銃後の守りに艇身昼夜の別なし昭和18年12月新竹州警部にして竹南郡行政主任たりし時台湾青年の海軍巡査を以て組織せる軍属部隊の長として比島に派遣さる部下への愛情深く慈父と仰がる されど戦況吾に利あらず遂に昭和20年2月米軍の上陸侵攻を受けるや吾に防御の術さへ無し軍の命令たる其の場に於て全員玉砕すべしと既に戦局の前途を達観したる隊長は部下に対し「この期に及び玉砕するは真に犬死に如からず君達は父母兄弟の待つ生地台湾へ生還しその再建に努めよ責任はこの隊長が執る」と一言泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す時に2月24日なりその最期たる克く凡人の為し得ざるところ宣なるかな戦後台湾は外国となりしもこの義挙に因り生還するを得た数百の部下達は吾等の今日在るは彼の時隊長の殺身成仁の義挙ありたればこそと斉しく称賛し此の大恩は子や孫々に至るも忘却する事無く報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと昭和51年9月26日隊長縁りの地霊峰獅頭山勧化堂にその御霊を祀り盛大なる英魂安置式を行なうその事を知り得た吾等日本在住の警友痛く感動し相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝えてその遺徳を顕彰せんとしてこの碑を建立す
 昭和52年11月吉日
 元台湾新竹州警友会
因に遺族は取手市青柳に住す
 廣枝音右衛門についてはあまり知られていませんが、出身地の地元では廣枝を顕彰し、多くの人に知っていただくための運動も始まっているようです。
 高五回同期会広報「五期会通信」(第81号平成30年7月20日)より一部書き換えて転載